『海と毒薬』

半分文句で半分感想。全編通してネタバレ。

 

「神を持たない日本人に“良心とは何か”を問う不朽の名作」である。著者は遠藤周作。戦争末期実際に行われた生体解剖を扱うとか言うから、(当時)女子高校生の中二心がくすぐられて、買った。神を持つ一神教徒が起こした戦争の末期の話で何が「神を持たない日本人」だと思ったものだが、どうも言いたいのはそういうことではないらしかった。

本の煽り文は生体解剖を「残虐な行為」と断定していたが、当の主人公はその「残虐性」をろくろく理解していなかったので、それはオモシロ作文みたいだった。でなければ煽り文いわく「小心者」の青年が、生きたまま人間を解剖する実験に参加できるはずないのだが。しかしそれこそが、「神」を持たないものに対する問いかけと思われる。

買った本なので動機は中二心だったけれど一応読んだ。平易な文章で構成されるのに美しく腥い世界に、女性の手記が挟まれる。それにはよく見るいわゆる「女」らしい面倒くさい感情とか、当時の社会があれだから多少仕方のないやるせなさとかが書いてあり、きわどい描写も散見されて、一気に読む手が減速した。暗澹とした世界がただの灰色になってしまった気分だった。緻密に構成された映画の陰翳が、埃くさい影に塗り替えられたと思った。フィクションにリアリティは要らない。わたしは小説の人間に感情移入しないタイプなのだ。自己満足にも満たない当てつけで相手を見くだす「女」のクソなことといったらない。つまらない自尊心のために本意でない行為に流される「女」がとにかく俗っぽくて嫌だった。驚くべきことに5年前のわたしは、今よりも更に跳ねっ返り女だったのだ。つまり同属嫌悪である。

女の話はそのくらいでいいとして、本題に入る。課題がマイノリティを扱った作品を挙げろと言うから、『海と毒薬』を引っ張り出して再読したのだ。たぶんこれはマイノリティだろうと思う人間はいた。ヒルダと戸田だ。

ヒルダは名前の通り外国人で、位置付けとしては偉い人の夫人にあたる厄介なお節介だが、作中における彼女のマイノリティ性はたんなる「外国人」にとどまらない。彼女こそ「神を持つ」、すなわち明確な「良心」の定義を持っている人間である。戦時中の病院の大部屋で、患者の延命よりも安楽死を選んだ「日本人」の看護婦に対し、彼女は激昂する。神の罰を恐れないのかと。

わたしはなんとも思わなかったし、看護婦もなんとも思わなかった。助かりやしない患者の苦痛を終わらせてやるのは良心ではないのか? とさえ思った。戦時中である。病院のベッドの上で安らかに死なせることのなにが「神」の御心に反するのか。のちに戸田が言う「人間の良心なんて、考えよう一つで、どうにも変るもん」というのはまさにこのことだと思ったのだ。

おそらくそれは間違いではない。何故ならわたしは「神」を持たないからである。「日本人」の感想として、これは最初に想定されているだろう。感想としては間違いではないが、遠藤周作が言いたいこととしては間違っているということだ。遠藤周作は言いたいことを登場人物に言わせたりしないのである。

別のマイノリティ性を持つのは戸田青年だ。彼も小心者と共に生体解剖に参加する。理由は生きたまま人間を切り刻んだら良心の呵責を覚えることができるかもしれないと思ったからだ。こちらは自分に良心が無いことを自覚していた。自覚した上で、それが無いことを不思議に思い、気味悪がってさえいた。「醜悪だと思うことと苦しむこととは別の問題だ」と彼はハッキリ言っている。わたしはこのセリフがめちゃめちゃ好き。己の所業を醜悪だと思いながら、そのことで罪悪感に苦しまないのが、彼の不可思議な「心」だった。余談だが、彼の少年時代は、ちょっと大庭葉蔵(第一の手記)みたいだなと思っている。

戸田青年に「神」がいたからと言って、彼が良心の呵責を覚えたかどうかは別として、問題は冒頭に戻る(長い話だった)。良心というのは不動の価値観でなくてはならないということだ。そんなこと言ってなかった? 生体解剖の「残虐性」を理解していない小心者が、自分でも理由がわからないまま、流されるように実験に参加したことの悪、これはここに繋がります。参加を持ちかけられれば、ヒルダは彼女の「良心」によって激昂するだろう。戸田は彼の「良心」のために参加した(望みは遂げられなかったわけだが)。

主人公の「良心」の無さとはこれに尽きる。最後まで読んでまた冒頭に戻ると、コイツは何を言っているんだろうという気分になる。ただ、たしかにこれは「神を持たない日本人」のステレオタイプとも言えた。不朽の名作だけある。問題は、わたしが「日本人」だから、この問いになんの感慨も抱かないことのみである。